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◆不定期日記ログ◆

■2020-12-18 : 消えゆく歴史用語
 歴史の教科書が新しくなるたびに、「聖徳太子」という単語が消えるだの消えないだのというニュースが出る。

 おなじみの単語が教科書から消えてしまうのにはそれなりの理由があるが(慶安の御触書とか)、だいたい「その当時はそう呼ばれていなかった」というのが大きいようだ。「鎖国」が消えると言われたときもそうだった。これについては単語として残っているものの、教科書では「この体制をのちに鎖国と呼ぶようになった」などの言い訳めいた記述がされている。鎖国がないのに開国があるのは不自然だからだろう。

 聖徳太子も同様に、2021年度用の指導要領解説では「のちに『聖徳太子』と称されるようになったことにも触れるようにする」とわざわざ書かれている。
 意味がわからない。それなら他の人には注釈は要らないのか? 北条政子は鎌倉時代から北条政子と呼ばれていたってことか? あの人、周りの連中が「みなもとの~」とか「ふじわらの~」とか「氏」で呼ばれてんのに、いきなり「ほうじょう まさこ」とかいう現代人みたいな名前を名乗りだしたわけ? タイムトラベラーか?

 話が逸れた。聖徳太子については実在を疑う説もあるし、肝心の「のちの時代で聖徳太子と呼び始めた人物」も諸説あり、これと定まっていないようなので、まあ仕方ない部分はある。


 そして、聖徳太子の陰で消滅の危機に瀕していた用語がもう一つある。
 今年世界中のゲーマーにおなじみとなった誉れ高き「元寇」である。

 これも当時は「元寇」とは呼ばれていなかった、「蒙古襲来」が当時の言い方だった、という理屈らしい。じゃあきっと第一次世界大戦に出兵した兵隊さんたちは「第一次ってことは第二次もあるのかよ……」って思ってたんだな。ひどい話だ。

 で、「元寇」はいつの時代の誰が言い始めたんだよ、と軽くWikipediaしたところ、すぐ次のような記述が出てきた。

「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』が最初の用例である。以後、18世紀の長村鑒『蒙古寇紀』、小宮山昌秀『元寇始末』、19世紀の大橋訥庵『元寇紀略』など、「寇」を用いた史書が現れ、江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていった。

元寇 - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
>徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』

(印籠が出たときのBGM)

格「元寇と名付けたお方をどなたと心得る。おそれ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!!」

悪人一同「!!」
町娘「水戸の……!」
おとっつぁん「ご老公様……!?」

助「一同、ご老公の御前である! 頭が高い、控えおろう!!」

(一同平伏)


 俺は実物の「大日本史」を水戸の偕楽園へ見に行ったことがあるが、漢文がギッシリ書かれた本の束がずらっと積み重ねてあってたいそうビビった。
 佐々木助三郎・渥美格之進の名前のモデルは、この編纂に関わった水戸藩士といわれている。もしも助さん格さんがアレを校正したというのならば、諸国漫遊より凄いことだ。そんな歴史書に「元寇」と書かれているならもう元寇でいいんじゃないか!?


 念のため出典に当たろうと思う。「大日本史」は長大だが、検索により201巻の北条時宗の項目にあることがわかった。原文は国会図書館のサイトで見ることができる。とはいえ俺が偕楽園で見たような達筆な漢文では読みようがないので、明治に出版されたものとなる。それでも漢文には違いないが。
 該当の資料を開いてひたすら年号を追っていくこと数分、文永11年のところに「元寇西陲」という記述を発見した。
 念のため見つけた箇所を転載しておく。俺は水戸黄門で「梅里」と書かれたご老公からの手紙(偉い人にネマワシしておくときによく使われる)を、偉い人が軽く拝んでから開くシーンが好きなので、リンクをクリックする前に画面を拝むこと。[画像]