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◆不定期日記ログ◆

CATEGORY 読書

■2021-06-06 : THE GHOST MAP
 スティーヴン・ジョンソンの『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』を読んだ。
 コロナでなくコレラの話です。2006年発行。


 舞台は1854年のロンドン(ジョナサン・ジョースターが生まれる10年ほど前)。日本史で言うとペリーが来た頃。
 当時のロンドンは200万人の人口をかかえる世界最大級の過密都市で、めちゃくちゃ人糞の山とかがあった。下水も漏れまくり詰まりまくり。ディオが「衛生観念もない虫けら同然のたかがじじいの浮浪者」とか言ってたが、そもそも公衆衛生という概念が生まれてない。そういう中でコレラが大流行する。詳しくはWikipediaにも項目がある。

 コレラは主に患者の吐瀉物や排泄物が口内に入ることで感染するが、当時コレラは汚れた空気(瘴気ミアズマ)がもたらすものだと信じられていた。お排泄物が街中に溢れていればそりゃもう臭く、これだけダーティな空気を吸ってれば病気にもなるわと誰も疑っていなかった。町医者のジョン・スノウを除いては。
 ジョン・スノウはタフな男だったので、同じ悪臭の中で暮らしていながら感染していない者、逆に比較的清潔な場所にいながら感染して死んだ者がいることに疑問を感じ、現地で調査をし続けた。そして町の教会のヘンリー・ホワイトヘッド副牧師と共にフィールドワークを重ね、清涼に見えた井戸水がこの災厄を引き起こしたことを突き止めた。
 統計と医学で衛生の必要を説いた偉人といえばナイチンゲールを思い出すが、同時期に同じく統計で戦った医者がいたことは初めて知った。それはそれとして「ジョン・スノウ」でググると『ゲーム・オブ・スローンズ』のイケメンばかりが出てくるので顔が良いッ!ってなってしまう。


 本書ではその感染経路を、いかにして「瘴気説」を信じる行政や民衆に提示していくかというパートにかなりページを割いている。
 ヒトは危険な細菌を目で見ることはできないが、その細菌が醸し出す悪臭を嗅覚で感じ取り本能的に避けてきた。だが臭いそのものは細菌ではない。たとえ悪臭のそばで暮らしていても、細菌が体に入らなければ発症しない……それは理屈で分かっていても本能が理解してくれない。
 ジョン・スノウは地図上に井戸の利用者の範囲と死亡者数をプロットし、マクロとミクロの両面から証拠を揃えていった。そして行政を説得し、井戸を封鎖してさらなる拡大を防いだ。現代の我々からすればオーバーキルめいた科学的根拠の物量でありぐうの音も出ない。それでも瘴気説が払拭されたのはジョン・スノウが死んだ後であった。


 コロナ禍にいる我々にとって、教訓にすべきことがいろいろある。
 コレラ禍の人々は「コレラは空気感染しない、患者の排泄物の菌が混じった水を飲むと感染する」って言われて「は? つまり俺たちはうんこを飲んでるってことか?」ってキレたと思う。実際は地面に穴を掘って汚物を溜めてたとこから土壌に菌が染み出して井戸水に接触したわけだが、まあつまり患者のうんこが微粒子レベルで存在することには違いない。
 コロナ禍にある我々は「井戸の近くにうんこ溜めてたとか信じられん、衛生観念のかけらもねえな」と理解はできるが、「コロナはいわゆる空気感染でなく飛沫で感染する」って言われて「エッ……つまり対面で会話したらもうお互いの唾液を交換している……ってコト!?」となってしまう。
 遠い未来、ゴリラ禍にある未来人たちは「現実世界でマスクなしで対面会話してたとか信じられん、それもうキスじゃん」って思ってるかもしれない。それもうキスじゃん……


 また、ヴィクトリア期は医学が未成熟だったのに比べて、情報は大きく進化していた。新聞とかだ。それゆえ「コレラの治療法」と称してヒマシ油を飲んだり(下痢が悪化してしぬ)、ブランデーを飲んだり(脱水が加速してしぬ)、瀉血したり(水分がなくなってしぬ)といった方法が広告欄を埋め尽くし、本当に有効な治療法にたどり着いた医者の意見は埋もれてしまった。
 現在の医療は大きく進歩したが、情報はそれよりはるかに速い速度で進化した。SNS上に溢れるデマの中から信頼に足る情報を得ることは年々難しくなっている。結局人は自分が信じたいものを信じるので、メディアをリテラシーすることはとても大変なのだ。コロナ禍にいる我々がコレラ禍にいた人々から学べることは多い。
 
■2021-03-17 : テキストサイトの亡霊
 ふとしたはずみでピース又吉氏の『第2図書係補佐』を読んだ。芥川賞の『火花』も以前読んだが、初めての単著ということなのでそれより古い文章なのだろう。

 内容は本の紹介・解説と見せかけて、その本の内容に触発された自分の話を2ページほど綴り、最後に一段落だけ本の内容に触れるという形式のエッセイ集になっている。夏休みの読書感想文としてこういう文を書いて提出してやりたかった。しかし人生経験の少ない小中学生がこの形式を真似するのは難しいだろう。

 そういうわけでこれはほぼエッセイなのだが、読んでいるうちにとても懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
 それは10年前に出版された本だからという理由ではない。
 又吉氏の少年時代の話が多数出てくるからという理由でもない。
 うまく表現できないが、内容ではなく、文体というか、語り口そのものが猛烈に懐かしい。なぜか実家のような安心感がある。この感覚は……出版された10年前よりもっと前……。


 20年くらい前、こういうエッセイを綴るタイプの日記サイトが確かにあった。白背景にグレーの文字で、フォントサイズは小さかった。画面の端にワンポイントでオシャレな画像が固定されていたりした。テキストサイトを雑に「白」と「黒」に分けるとすると「白」のほうのサイトだ。この説明でこの感覚を理解できる人はそれほどいないだろう。ちょっと待って欲しい。いま脳内に浮かんでいる画像を生成するから……こんな感じで……。
コジャレ系テキストサイト
こういう感じのサイト
 これで「あったあった~!」と思ってくれる人がいるのだろうか。情報量はあまり増えていない気がする。

 これは決して又吉氏が素人っぽい文章を書いているということではなく、実際に「白」のタイプのテキストサイト管理人の中からプロの小説家になった人が何人かおり、そのせいで文学的な素養をこういうサイトデザインに結び付けて考えてしまっている俺のほうに異常性がある。(逆に「黒」のほうはライターになる人が多かった? 今とても雑な印象で雑な語りかたをしている。真に受けないで欲しい。)
 実際、サイトデザインと文章はまったく関連がないはずだ。だがなぜか、文化人の短いエッセイを読んでいるとき、俺の脳裏にはこういうレイアウトが浮かんでくる。テキストサイトの亡霊だろう。成仏してほしい。
 
■2020-12-19 : MOTHERのことば
 一大事でござるぜアミーゴ!
 大ニュースでござるぜセニョールセニョリータ!
 果報者のアミーゴにビッグなお届け物でござるぜ!
MOTHERのことば
 てばさきは「MOTHERのことば。」を手に入れた。

 この夏に「MOTHERのテキストを全部ぶっこんだ本が出る」とアナウンスされ、校正チームが公募されたときに俺は迷わず手をあげた。結果的に風のように永田さんから丁寧なお祈りメールが来て校正することは叶わなかったが、とにかくこの分厚い本を俺は最速で注文し、そして手に入れたのであった。
 この本、とにかく信じられない量のテキストが掲載されている。ゲーム中の誤字もそのまま掲載されている。ポーキーの「メイドのみやげ」が誤字ってたなんてこと知ってました? 俺は今知りました。
MOTHERのことば
 そしてエンディングのスタッフロールの文字だけ見て泣いています。文字列からエンディング曲「グッドフレンズ・バッドフレンズ」が再生されているからです。ついに流れていない曲で泣くようになってしまった。


 こういうプロダクトが成立してしまうのがMOTHERのすごさなんだよな。あんまり 重要じゃない セリフも 細かくフォロー しているところが あのゲームの いいところらしいねぇ。
 ただ、「本とかいいから現行機でMOTHERを遊べるようにしてくれ、俺はゲームを愛してるんだ」という意識もある。自分のことながら「えっ 君たちって 資本主義の 最終イメージを 想像することさえも しないで 生きてるわけ!?」と煽りたくなってしまうが、実際、全てのテキストが本という形で記録されたのは大きな意義がある。
 要するに、仮にニンテンドースイッチでMOTHER全作が遊べるようになったとしても、20年もしたら起動できなくなっちまっている可能性があるわけだ。その点、本であれば国会図書館に収蔵され、君が代が千代に八千代に続く限り参照することができる。図書館に 行くと 勉強になるわぁ!「マザー2」のこととかも いっろいろ わかっちゃった! ……そういうことだ。

 あと、本になったことで正確な引用が可能となる。どういうことかというと、

ゆきどまりには アイテムをおく。
じゆうかってに もちさるべし。
‥ブリック・ロード

「MOTHERのことば。2」糸井重里 P285より
 という感じだ。いや別に「MOTHER2より」でいいじゃんそんなの……。

 しかしこれ、特にどせいさんパートのあたりが「校閲されていない糸井重里」って感じでとてもいいです。コピーライターとしての上澄みでなく言葉がそのまま流れ出ているような。ずっと読んでいると あたまがぼんよよよんに なる。ならない。なるない。マニマニは マニマニに いつも すべての マニマニの マニマニが マニ すべて ママ マニマニ
 
■2016-08-11 : もしメロスが小学生だったら
  妹のけっこん式に出たこと

 夏休みに、まちにまった妹のけっこん式がありました。*1
 けっこん式の前に、ぼくは、シラクスの町で買い物をしました。すごくしずかだったので、ぼくは
「へんだな。」*2
と思いました。おじいさんがいたので、
「どうして、しずかなんですか。」
としつ問したら、おじいさんは、
「王様は、人を殺します。」
と言いました。
 ぼくは、
「あきれた王だ。生かして置けぬ。」
と思って、ゆう気を出しておしろへ行って、王様に注意しました。セリヌンさん*3もいっしょに言ってくれました。ぼくは、妹のけっこん式があるので、と中だったけど、家に帰りました。*4
 けっこん式はすごく楽しかったです。でも、セリヌンさんのところにもどらないといけないので、早めにねました。
 おしろへもどるときに大へんだったことのひとつ目*5は、川の流れがすごい急になっていて、どろ水で、橋もなくなっていました。*6ぼくは、
「とても、わたれないな。」
と思いました。でも、ぼくの愛と誠の偉大な力を神々が照覧してくれたので、わたれました。泳ぎきれたときは、すごくうれしかったです。*7
 ふたつ目は、山ぞくです。大ぜいでかかってきたので、こわかったけど、山ぞくは走るのがおそかったので、にげきりました。
 みっつ目は、暑かったことです。ぼくは、泳いだり走ったりしたので、つかれてしまって、
「やんぬるかな。」
と思いました。
 そして、夜になりました。やくそくの時間には間に合わなかった*8けれど、思い出にのこるけっこん式になりました。*9

 *1 いろんな行事を待ちに待ちがち
 *2 セリフで改行して行数を稼ぎがち
 *3 説明なしで新キャラが登場しがち
 *4 事情が込み入ると超展開になりがち
 *5 順序を示す言葉を使うよう指導されがち
 *6 長い文を書くと主述がねじれがち
 *7 万能ワード「すごくうれしかったです」
 *8 サラッと大変なことを書きがち
 *9 待ちに待った行事は思い出にのこりがち
 
■2016-01-26 : 金太郎は過大評価では?
 金太郎をご存じだろうか。
 愚問である。誰もが知っている。彼はよくわからんハレンチな赤い布をまとい、熊を使役し、マサカリを武器とした。みんな知っている。そのことは知っている。
 だが彼は何をした人なのか、そこまで来るとほとんどの人が口を閉ざす。昔の日記で「知名度のわりに実態が知られていない」と危惧したが、その思いは強まるばかりである。娘の絵本に彼の物語が載っていた。今なら青空文庫にもある。時間のある人は今一度目を通してみてほしい。

 金太郎 - 青空文庫

 終わり方がひどい。思っていたよりひどい。
 主人公の紹介を終え、熊とチュートリアルバトルをして、お侍さんにスカウトされ、いよいよ都で本格バトルだ、というところで無慈悲に終了する。なんなの?体験版なの?少年ジャンプの10週打ち切り漫画でももうちょっと話を転がすぞ。
 だってお前「マサカリかついだ金太郎~♪」っていうオープニングテーマも公開されてただろ。プレスリリースには仲間とともに大江山ステージで酒呑童子と戦う迫力の画面写真もあったじゃん。なんで体験版だけ出してアワレにも倒産しちまったんだよ。ダメじゃない?これ語り継いじゃダメじゃない?静岡県ゆかりの彼をあまり責めたくないけど、少なくとも桃太郎とか浦島太郎と肩を並べていい作品じゃなくないこれ?


 金太郎がここまでの地位を築けたのは、おかっぱ頭と斧とよくわからんハレンチな赤い布、というわかりやすい記号性が、五月人形などのフィギュア原型師に愛されたからであろうと推測する。公式からの供給が途中で消滅したのに、同人グッズだけはさかんに作られている希有なジャンルなのかもしれない。
 
■2016-01-06 : 冬の読書感想文
 イェスパー・ユールの「しかめっ面にさせるゲームは成功する」を読んだ。


 普段新書か文庫しか買わないくせに、なんでまた2000円もする翻訳書を手に取ったかといえば、毎晩ワイフがSplatoonをプレイしながら「糞!ファック!」としかめっ面で地団駄を踏んでいるからである(誇張表現)。
 ひどい負け方をして悔しい!と言って席を立つのでチョーシメーターを見てみたらチョーシサイコーだった。総合的に見て勝ちまくってるじゃねえか!なんだよ!俺なんか第二回赤いきつねフェスでボッコボコにされ続けてチョーシメーターは最後までボチボチから出なかったんだぞ!それでも文句の一つも言わずに黙々とクリスマスキッズたちと……

 ……どこまでも脱線しそうなので本の話に戻る。
 本書いわく、ゲームには失敗がつきものである。失敗のないヌルゲーは物足りないし、対戦であれば必ず敗者が存在する。我々は現実世界では失敗しないようにふるまうが、なぜ失敗するとわかっていてゲームをするのか?


 ちょっと翻訳が難しくて、というか「翻訳者もコレ言ってる意味がわかんなかったから辞書的に訳したんじゃないか?」ってくらい難しい部分もあって、なかなか意味をとるのに苦労した。

 まずひとつの説として、「人間はみずから悲しい思いをするために悲劇を観に行く」という「悲劇のパラドックス」を例にとる。恐怖映画も、胸糞小説も、我々は途中で映画館を出たり本を閉じたりする主導権を握っているので、安心して負の感情を摂取できるエンターテイメントとして成立しているのだ。ゲームの中での失敗も同じで、いつでもやめられるし、現実世界で給与の査定に響いたりはしないから……というのが最初に出てくる理由だ。

 もうひとつの理由として、失敗したところにリトライして乗り越えたときにカタルシスが得られるから、という視点が挙げられている。どうしてもクリアできなかった音ゲーの譜面を間一髪さばけるようになった、とか、スーパーウルトラサンボマンボマーシャルアーツに苦戦したがシールドαを覚えたら圧勝できた、とか、そういう達成感のことと思われる。達成感のないゲームは面白くない。つまり、プレイヤーを失敗させることは、ゲームに不可欠な要素なのだ。


 で、「失敗」させる要素を仕込むためには、当然「ゴール」を設定し、また、そのゴールに至るための「経路」を敷かねばならない。
 筆者はそのゴールに至るための経路、言い換えるなら「ゴールに至るために何を求められるか」で、ゲームを3パターンに分類している。
 なお、くれぐれもこの分類はクッキリと分かれるものではなく、ひとつのゲームの中に混ざりあっていることが多いことを留意して頂きたい。

■「スキル」のゲーム
 プレイヤーの能力に応じて報酬をあたえる能力主義のゲーム。
 俺が個人的に「体育会系ゲーム」と分類している、古典的シューティングやアクション、格闘ゲームなど、経験値がプレイヤーに蓄積するタイプのゲームである。
 これに失敗することはすなわちプレイヤーの能力の不足を意味し、場合によっては失敗に学ぶ機会となる。

■「運」のゲーム
 対戦ならじゃんけん、ソロプレイならソリティアなど。いわゆる運ゲー。
 麻雀とかポーカーとかは運の要素もあるけど、経験からくる状況判断力も重要なので、どこまで「運」でどこまで「スキル」かは判断の分かれるところ。
 運は一回だけの勝負では不平等だが、何度も対戦する場合は全員に対して平等である。
 これに失敗するのは、ただ不運であったと諦めるしかない。次ガンバロ!

■「労力」のゲーム
 プレイヤーが費やした時間に応じて報酬を与えるゲーム。
 俺が個人的に「文化系ゲーム」と分類している、RPGとか、懐かしのサンシャイン牧場とか、経験値がゲーム内に蓄積するタイプのゲームである。
 この場合の失敗とは「まだ成功していない」だけであり、レベルを上げて物理で殴ればたいてい解決できる。


 そしてさらに、「ゴール」の種類を3パターンに分類している。

■クリア可能なゴール
 一般的にクリアっていう場合にイメージするのがこれ。
 マリオだったらピーチ姫を救ってエンディング、FF2ならウボアー。
 一度ゴールしてしまえばあなたはそのゲームをクリアした人となり、不可逆である。

■一時的なゴール
 格ゲーで相手に勝った、マインスイーパを無事クリアした、など繰り返されるゲームのクリア。
 じゃんけんとかソリティアとか、「運」のゲームはこのゴールが多い。
 だがたとえばRPGでも、誰かとリアルタイムアタックを競えばこのパターンとなりうる。ゲームシステム側でゴールを設定しなくても、プレイヤーの側で勝手にゴールを設定することも多々あるわけだ。

■上達のゴール
 タイムアタック、スコアアタックなど。
 クリア(自己ベスト更新)してもそれが次のゴールになるだけであり、果てしない。
 中にはクッキークリッカーみたいにゴールそのものが存在しないデザインもある。


 ゲームは、この3種類のゴールを適切に配置し、そこに至るまでの3種類の経路を提供することで、プレイヤーを成功もしくは失敗に導いているのだ。
 たとえばSplatoonの一試合の結果は「一時的なゴール」であり、負けてもすぐ次の試合がある。そして一試合ぶんプレイヤーの「スキル」が高まったことで、次は慎重なプレイをして勝てるかもしれない。また、試合ごとメンバーがランダムなので、「運」がよければ次は味方に強い人が来て圧勝できるかもしれない。こうしてSplatoonは次の試合へとイカを駆り立てる。


 本書にはもっといろいろ、「プレイヤーの成功とキャラクターの成功を切り分けられるか」とか「失敗したくないために面白くない戦法をとってしまう心理」とか書いてあるんだけど、ちょっと俺の体験に引き寄せて咀嚼することが困難だった、っていうか翻訳口調がホントわかりにくくてアレだったので、第四章の分類の部分だけ中心にまとめてみた。
 ぶっちゃけ筆者の主張とズレた読み取り方をしてるかもしれない。興味のある人は手に取って検証してみて欲しい。
 
■2015-07-01 : ニンジャスレイヤー読破ガイド
 凄い小説!痛快な展開!ニンジャが出て殺す!
 またしてもニンジャスレイヤー推しエントリーだ!

 前回は「読書ガイド」ということで、初めてニンジャスレイヤーに触れる人のための拾い読みエピソードを紹介した。なので今回は「今からでも最新の話に追いつきたいんだけど!?」っていう重篤者へのデスロードを走り始めた人のためのエピソードを紹介する構えで行く。
 公式が言う通り、ニンジャスレイヤーはどこからでも読める……だが中核を担うエピソードには「心の地図」が必要だ……そこまでのストーリーの流れを理解するための「心の地図」が……そういった観点で、完全な私見によってエピソードを抜粋した読破ガイドをつくりました。

 ◆ニンジャスレイヤー読破ガイド◆(ひとまず第二部まで)

 これを機に多くの人がニンジャすることをいのっています。
 
■2015-04-18 : ニンジャスレイヤー読書ガイド
 先日、ニコニコ動画にてニンジャスレイヤーのアニメイシヨンが公開され、視聴者の度肝を抜いた。自分の観測範囲では、この話題は賛否とともに拡散し、いわゆるニンジャヘッズ外の層にも届いたように見えた。
 これを機にヘッズ化する層がどれだけいるのかはわからないが、ニンジャスレイヤーは非常に自由な作品ゆえに、小説本文に気軽にアクセスできるわりには「どう読み始めたら良いのか」という部分のハードルが高い。
 なのでおせっかいにも完全な私見による読書ガイドをつくりました。

 ◆ニンジャスレイヤー読書ガイド◆

 これを機に多くの人がニンジャすることをいのっています。
 
■2013-08-17 : 夏の読書感想文
 ここしばらく『ニューロマンサー』を読んでいた。
 1984年刊、「サイバーパンク」の発祥となったらしい小説である。

 「らしい」というのは、つまり、解説やインターネットで作品の背景を調べつつ読み進めていったわけなんだけど、どうやら映画『ブレードランナー』と同時期で、ちょうどSFの未来像が、清潔感溢れる明るい都市から、ハイテクと環境汚染の暗い街へとシフトしていった時期のことらしい。84年なんてまだインターネットは一般市民の手になかっただろうし、主人公の「電脳空間に意識をジャックインして企業機密などを盗み出す犯罪者」という設定はいったいどこから出てきたんだろうと、当時のSF界のイメージの鋭さに舌を巻く。

 さすがに古いSFで、かつ翻訳ということもあって、大変読みにくい。固有名詞に加え、おそらく専門用語とおぼしき単語が頻出し、なかなか描写についていけない。「マトリックス」とか「ザイオン」みたいな馴染みのある単語ばかりなら良かったんだけど。どこからが実際にあったことで、どこからが電脳空間のイメージなのか判別できないことが多々あった。

 なんでそんな苦労して古いSFなんて読んだのかっていえば、そりゃ『ニンジャスレイヤー』の影響に他ならない。もう第一部が「千葉市憂愁(チバ・シティ・ブルーズ)」なのでかなりアトモスフィアが漂ってる。なぜだ、なぜ千葉なのだ。ネオサイタマいい加減にしろよ……。

ヤキトリ屋台にマッサージ・パーラー、《美女》という名の喫茶チェーン店、ゲーム場の電子騒音、と通り過ぎる。ダーク・スーツの〝さらりまん〟に道を譲りながら、その男の右手の甲に刺青された〝三菱ジェネンテック〟の社章に目を留めた。

(第一部 千葉市憂愁)
 やはりサラリマンは日本語の模様。作中では主人公が「ひとつのザイバツで一生働きつづけるというのは、どんなものなのだろう」と思いをはせるシーンもある。
 千葉シティが舞台なのは第一部だけだが、その後も、

「じゃあ、どうして指が全部あるの。ヘマするたびに一本ずつ切らなきゃいけないんでしょ……」
「ヘマしないのさ」

(第三部 真夜中のジュール・ヴェルヌ通り)
 ケジメ!不意打ちでこういうアトモスフィアのある文脈が挿入されてくるので油断ならない。なお銃刀店には普通に手裏剣が陳列されており、最終章ではクローンニンジャが出てきてオジギをしたので完全にぼくはまんぞくしました。
 
■2011-07-13 : 裸の王様
 我々は「裸の王様」という言葉を嘲笑の意味で使うけれど、もうちょっとこの王様を評価してあげてもよいのではないか。

 ファッションにこだわり、公費を使ってたくさんの贅沢な衣装を購入していたことは責められてしかるべきだし、詐欺師から「馬鹿には見えない服」を買ってしまうに至ってはフォローのしようがない暗君である。
 しかし彼は、その「馬鹿には見えない服」を国民にお披露目するパレードを行った。これはつまり「私の国民に馬鹿は一人もいない」と確信している、ということである。「馬鹿な国民」の存在に想像が及ばないのは問題かもしれないが、当時の専制君主たちの中で、このような意識を持っていた執政者がどれだけいるというのか。

 イギリスには、領民のため裸で城下を一周させられたゴダイヴァ夫人の伝説が残っている。領民は、夫人の尊厳を守るため家の扉を閉じ、いっさい外出しなかったという。このとき夫人の裸を覗き見たピーピング・トムには神罰が下った。現在、イギリスにはゴダイヴァ夫人の銅像があるらしい。全裸の。……え、それは良いの?
 ともかく、「裸の王様」も、子どもの一言ごときで信念を崩さなければ、そのうち銅像になるような善政を敷けたのではないだろうか。

 また、王様は裸なのではなく、ちゃんと下着は着ているようだ。邦題で誤解してしまうが、いわば「裸の大将」と同じ装備であり、まあアルティメット・クールビズだと思えばなんとか見過ごせるレベルであろう。このご時世、彼から学ぶべきところは多い。
 
■2011-04-22 : 読書感想文:リスク管理
 詳しくは「移植くじ」で検索していただきたいんだけど、「健康な人の中からくじで1人を選び、その人の臓器を使って5人の患者の命を救う制度」ができるとしたらどう思うか、っていう思考実験がある。当然、思考実験の話なので、移植は確実に成功するし、しなければ死ぬ、というのが前提だ。

 それとは別に、前に流行ったサンデル先生の講義に、「トロッコ問題」というのがある。
 制御不能になったトロッコが5人の作業員がいる方に向かっている。分岐器のそばにいるA氏がスイッチを押せば、トロッコは別路線に入るので5人は助かるが、代わりに別路線にいる1人の作業員が死ぬことになる。A氏はスイッチを押すべきか?……という問いかけ。

 全員助かる方法を考えよ、っていうトンチの問題じゃあない。どちらも「放っておけば5人死ぬ、1人死ねば5人助かる」という状況が確定された上での話だ。でも、トロッコ問題では多くの人が「1人が死ぬ」という選択肢を選んだのに対し、移植くじではほとんどの人が「1人が死ぬ」選択肢に不快感を示す。

 この違いは明白。
 トロッコ問題は「自分」にまったく関係のない問いかたをしているけれど、移植くじはごくごくわずかな確率で「自分」に影響を及ぼす。
 見ず知らずの人の命なら、5個と1個に大小関係をつけることができるし、非常時にはそれが判断材料となる。でも、自分の命を想定すると、とたんにそういう論理が通用しなくなる、という事だ。
 アッタリマエの話だ。自分の命はどんな物とも釣り合わない。確率がどんなに小さくても、失う物が自分の命だったら、期待値はマイナス無限大のままだ。自分の犠牲がどんなに意義のあるものだったとしても、「この宇宙のために死んでくれる気になったら、いつでも声をかけて。待ってるからね」なんて言われて了承なんてするわけない。


 最近読んだ『メディア・バイアス』という本にに面白い話が載っていた。プロレス技でないほうのDDTをご存じだろうか。俺は高校の英語の時間にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を英語で読まされたから覚えている。
 DDTという殺虫剤は安価なため大量に作られていたが、『沈黙の春』によってその危険性が告発され、禁止に至った。……が、その結果、DDTをマラリア蚊の駆除に使っていた国々では、マラリアの犠牲者が年間250万人クラスにまで達したという。これを「レイチェル・カーソンの虐殺」というメディアもある。
 現在は、主に発展途上国で、厳重な管理のうえでDDTが使われているらしい。自然界に影響を与えないであろう範囲で、マラリアを防ぐのに十分な量を使おう、という判断に至ったわけだ。

 もちろん、DDTによって家畜や魚に影響が出るリスクは完全にゼロではない。その危険性がピックアップされたら、我々は「輸入禁止措置を」とか「家畜の全頭検査を」とか、メリットに釣り合わないことを言うだろう。だが、温暖化でマラリア蚊が日本に大量発生したら、同じように防疫するに違いない。

 自分に関係あるかないか、という点でメリットとデメリットを比べると、当然自分に関係のあるほうに軍配が上がるのは当然だ。デメリットによる不安は、つねに利己的に出現する。遠くの国の250万の命と、自分の命は比較することができない。これは冒頭の「自分の命は統計で扱えない」という性質による。


 原理的に「不安になること」は避けられないし、責められるべきことではないと思う。あらゆるものには必ず副作用があり、微少だから悪影響が現れないか、それをはるかに上回る恩恵があるから使用量を管理して使っているかのどちらかだ。
 ならせめて、危険そのものではなく、その管理方法に不安を向けることにしよう。猛獣を恐れるあまり、その檻のほころびを見落とすようなことがあってはいけない。
 
■2011-01-25 : 虚偽記憶
 まったく物忘れがひどくて困る。
 注意力も3万だ。(標準は53万)
 毎日、メガネや鍵や財布やケータイが俺の時間を奪うのだ。
 自分の脳に絶望して、つい記憶についての本を手にとっていた。

 読んだのは「なぜ、『あれ』が思い出せなくなるのか」(日本経済新聞社)と「記憶はウソをつく」(祥伝社)の二冊。
 人間の記憶のメカニズムについて、おぼろげながら輪郭を見せてくれる本だ。


 脳は、すごくおおざっぱにデータを蓄えている。
 記憶に残っている鮮明な風景も、それは決してハードディスクに保存された画像のようなものではなくて、追想するたびに脳内のコラ職人が素材を寄せ集めて作り出しているのだ。
 使わない素材はどんどん存在が薄れていくし、そのときの気分によって使われる素材が違ったりもする。定番の素材でもどこに保存したかわからなくなることがあるし、そもそも素材を保存しそこねてたりする。
 ……このコラ職人のたとえは今俺が勝手に作ったので不正確かもしれない。
 とにかく記憶は、脳が、つじつまが合うように作ってるのだ。
 そのアバウトなコラ技術が、数々のエラーを生んでいる。

 「記憶はウソをつく」のほうでは、この脳のエラーがどれだけの冤罪(偽の目撃情報、偽の自白)を作り出したかが語られており、恐ろしいことこの上ない。
 捜査官との会話の中で犯行の状況を想像すると、それが素材となって虚偽記憶がすくすく成長するのだ。
 詳しくは「虚偽記憶」などで検索するといいけど、他人に「幼いころ自分はショッピングモールで迷子になった」という偽の記憶を植えつけてみる実験が、25%の人で成功したとのこと。
 誘導尋問的に攻めれば、記憶すら捏造されてしまうこんな脳みそじゃポイズン!


 つまり、俺が幼少のころ電車に向かって「バスー!!」と叫んだというロックな出来事は、アレは両親から植えつけられた虚偽の記憶である可能性があるな。
 記憶に残っていても記録に残っていなければ大丈夫!
 この調子で自分の黒歴史をなかったことにしていくのだ!
 
■2010-12-16 : 天の道を往き総てを司る男
 水嶋ヒロ先生の『KAGEROU』をちょっと見せてもらった。
 なんでも初日に43万部を売り上げたとは聞いていたが、実際見て、泣けた。
 これほど泣ける小説は初めてだ。
 
 本文中になにか貼り付いてると思ったら、
 それは誤植部分をカバーする訂正シールだった。 
 編集者として最も見たくないモノである。

 訂正シール貼りのエース(褒め言葉ではない)の異名をもつ俺でも、
 2万冊に訂正シールを貼る仕事をしたときは相当凹んだ。
 それが43万冊積んであると思ったら相当泣ける。 
 43万……やっとベジータを退けたところにフリーザクラスかよ……

 えっと、他のページについては読んでないのでよくわかりません。


 しかしこの売り上げ、日本中で相当な額のお金が動いたことになる。
 初日の動きだから、話題だけでもこれだけのお金を動かせるのだ。
 まぎれもないスターである。

 「大きくなったら仮面ライダーになりたい」っていう子、今でも結構いるみたいだけれど、水嶋ヒロ先生を見てると意味合いが随分変わってくるな。
 
■2010-09-07 : 太陽戦隊ジャンバルジャン
 朝から図書館へ行って、資料探しをした。
 目的は『フランス―その国土と人々』という本。
 帝国書院の『全訳 世界の地理教科書』シリーズのひとつで、実際にフランスで使用された地理教科書を和訳したモノだ。

 1977年版なので、当然、EUはおろかECも出てこない。
 外国の教科書に興味があって探してみたんだが、よく考えたら地理の教科書なんて数年で使い物にならなくなるナマモノである。
 これをもってフランスの教育がどうこう、なんていうネタには使えない。

 翻訳の口調が教科書らしくなくて面白いなーと思って読んでいたら、交通のページに、交通事故の写真が掲載されていた。
 折り重なる車の残骸の写真の横に、キャプションで小さく

 「ああ無情!」

 とだけ書かれていたのが投げやりで良かった。
 レ・ミゼラブルって書いてあったんだろうな……たぶん。
 
■2010-08-28 : 夏休み読書感想文
 ジャレド・ダイアモンド博士の『文明崩壊』を読了。
 現在・過去の文明の崩壊っぷりから環境問題を語る本。
 さすがに前著『銃・病原菌・鉄』には新鮮さでやや及ばないが、知的好奇心を充填してくれる大作であった。
 ハードカバー上下巻あわせて900ページ弱だが、環境問題について多面的に知りたい人は挑戦するといいよ。


 さて『銃・病原菌・鉄』と同様、この本でも、同じテーマをいくつもの違う土地でなぞる方法で論が進んでいく。
 今回、何度も出てくるのは「人間がやってきて、森を切り開き、その悪影響によって自滅した」というシナリオだ。

 我々は畑も森も同じ「緑」として認識しがちだけれど、畑というのは確実に土地を疲弊させている。
 結局のところ、農業も、土中の栄養を集めているという考え方をすれば、狩猟採集と変わらない。石油や鉱物や海洋資源と同じく、乱獲すれば枯渇する。
 また、耕した畑は風雨による侵食を受けやすい。放置されればあっというまに土壌が流出する。
 AOCプレイヤーはよくご存知だと思うが、畑を張るのには木が必要だ。
 森が食料生産を支えている。

 食料自給率を上げろ、というキャンペーンがずいぶん前から張られているが、「金を払って食料を輸入する」ということは「食料生産に関する環境負荷を、相手国に負担してもらう」という側面が意識されていない。
 もし食料自給率を高めて、日本の農業規模を倍にすれば、森林伐採をはじめとする環境負荷も倍になるだろう。


 この問題に人類はどう立ち向かうんだろう。
 第2部に、グリーンランドを発見したヴァイキングが、ヨーロッパ風の生活様式を貫き、その団結力で痩せた土地に文明を築いた話が出てくる。
 しかし、300~400年を過ごすうち、彼らは気候の寒冷化という危機に見舞われる。
 ヒツジやウシを飼うのをやめ、イヌイットに学んでアザラシを捕れば、寒冷期を越えられたかもしれないが、彼らはヨーロッパ的価値観を捨てることができずに、歴史から姿を消した。

 「不適切な条件のもとで人々が最も頑迷にこだわる価値観というものは、過去に、環境に対する最も偉大な勝利をもたらしたものでもある」とダイアモンド博士は言う。

 我々が捨てるべき価値観とは何か?
 その回答になりそうなモノはいくつか挙げられているが、個人的に気になったのはそのどれでもない。

 第2部の最後に、ティコピア島の人々の生活が、崩壊をまぬがれた例として出てくる。
 外部からの支援がない孤島では、生産できる食料は限られ、したがって支えられる人口も限られる。
 人口を抑制するため、多産は非難され、堕胎や嬰児殺が日常的に行われた。
 入水自殺も数多く記録されているという。

 ひょっとして、我々が捨てるべき価値観は、
 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」
 「子孫繁栄は人類の願い」
 という類のものじゃあないだろうか。

 ダイアモンド博士は「人口増加率は減少に転じている」と記載するにとどめたが、人間を減らさないことには、環境問題はクリアできない気がする。
 人口過密が環境ストレスを呼び、それが紛争などの政治ストレスにつながるのが文明崩壊へのシナリオだ。
 中国の一人っ子政策は成功したとは言いがたいが、今後こういう試みが世界各地で行われる日が来るかもしれない。誰だってギレン・ザビが「せっかく減った人口です」なんて言う状態にはなりたくないんだから。
 
■2008-03-28 : 太宰×漱石2
 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けばメロスが激怒する。情に棹させばメロスが激怒する。意地を通せばメロスが激怒する。とかくに人の世は住みにくい。